※これは3ヶ月前にメモ帳に残ってた叫び。主に雑誌デザインの話。
「不親切なデザインは良くないよ、ちゃんと説明してあげないと。」
「説明しすぎない。読者を信用してデザインする。」
という二つの、一見反するような意見に以前から違和感を感じていた。
読者に優しい方がいいの!?説明しすぎちゃいけないの!?どっちだよ!!
そしてなんとなくフローリング掃除していたら何か閃いた。
これは反対意見ではない。場合によって変化するとかそう言うものでもない。きっとこれは共存しうるただの別意見だと。
配慮の段階がおそらく違う。「一を聞いて十を知る」を求める姿勢だと良くないと言っているのが親切デザイン。読者を舐めない、赤ちゃん言葉を喋るようなことをやめようと言うのが信用デザイン。多分。
読者の教養を信じてデザインすることと、読者を超能力者だと思い込んでデザインしないことは共存しうるはず。だ!
これはそう言うことなのかなと思った。
・「一を聞いて十を知る」は違うか?先を読める頭の良さってなるといいんだけど、なんて言うか、知らない言語をいきなり喋れって言うみたいな。一単語だけヒント出しても全部わかるわけないじゃんみたいな。それはダメでしょ。
読者はそのモノについて全然知らないんだから、あなたの親友に説明するのとは訳が違うから、妙に過信するとか、自分が分かってるからって説明しないとか、そう言うこと製作者だけでずっとやってると、、、、
これは話が違うか???んん、、(こんがらがってきた)
・雑誌で良くある丁寧なデザイン。説明過多。想像の余地なし。受け取るだけで読者は全く頭を回さない。
そう言うデザインに対抗して策を打ってきたのが、読者を信用して、説明不足に思えるほどのシンプルなデザインをしてくる人たち。この人たちにはある程度の教養がある質を求める読者がつく。
クラシックとかと同じ感じがする。もしくは受験して偏差値高いやつだけ集めるみたいな。雑誌業界的にはそう言う読者の選別というか。
いやそういうこと考えてるのは違うと思うけど、なんというか、良い雑誌を求めることは良い読者を求めることも同じことだから、今そう言う流れになってきてんのかなって。
偏差値低い読者は芸能人の不倫に騒いどけってか(((
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3ヶ月経った今、冷静にどうだろうかと考え直してみる。
読者を信じることは大事だし、自分がわかってるからって説明できてないのはあかんのはそうだと思う。
が、しかし、その前に。
まず言えるのは、デザインする際に最終目標が「親切なデザインにしよう」「シンプルなデザインにしよう」ではいけない、ということ。
目標はそれぞれにある。「値段高めなシャンプーの売り上げを伸ばすための駅内広告」「子供が英語に親しみを覚えるような絵本づくり」「仕事終わりの男性客が電車で読みたいカルチャー雑誌」etc...
結局、親切だろうがシンプルだろうがシャンプーが売れればいいし、子供が英語を話すようになればいい。
自分がどうしたいか、どういう手法でその目標は達成できると思うか。それがデザインの形を決める。デザイン本位であってはならないはず。
デザイナーはデザインが好きだから、ついデザインすること自体を目的に置いてしまう。社会にそのデザインが放り出された時、どんな形が望ましいのか、それが親切かシンプル化を左右する。
だからどっちが良いとか悪いとかは、きっと無い。
デザインする度に毎度向き合って考えなきゃいけない、ただの項目の一つ。
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ちなみに最近の私的にはシンプルデザインを深めたい感じ。だって説明すれば伝わることは当たり前だから。文字に頼りすぎない中で、いかにシンプルで強烈な誌面が作れるかは挑んでみたいこと。
それから親切=説明的でもないよなぁ。ちょっとしたノンブルとか、ちょっとした色付けとか、構成をわかりやすく組み替えるとかそういう親切さは是非とも追求していきたい。見えない優しさ。(優しさってか結局こっちが伝えたいこと伝わるようにするための工夫なんだけどね!!どこまで行っても作る側のエゴ)
読者がポケーっと読んで流れてくる情報をただ受け止めるだけ〜っていうSNS的な流れから逃れたい気持ちがあるので。親切デザインに溺れてないで、想像力働かせて是非とも自分の糧としてくれ読者たち〜!お互い頑張ろうな〜!
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